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写真をするということ
「こだわり」というのは、一種胡散臭いものだ。
そのことに興味のない人には、聞かされたくもない話だ。
写真については、デジカメの普及と進化でこだわらなくても勉強しなくても
撮りたい写真に限りなく近いものが撮れてしまうようになった。
かわいい写真・・かっこいい写真・・きれいな写真・・
しかも、モードやアプリなんかあるからレンズやカメラを買わなくても
いろんな種類のカメラの特徴も表現できてしまう。
なぁ~んか物足りないような気がする・・
フィルムやレンズや印画紙を研究して、自分に合ったものを探し出して、
自分の表現をしようとすることは「写真を撮る」だけでなく「写真をする」という感じがした。
確かに面倒くさかった。
自分の表現を見つけ出す前に、技術だけでなく、道具や材料のことも知る必要があった。
なかなか楽しむまでにたどり着けないところもあった。
でもそんなことを飽きることなく話し合うのも楽しかった。
最近また暗室を再開している。
悩んだり、わからなかったりしたとき相談できる人がいなくなってきた。
そう考えるとやらなければと思ってしまう。
もちろん自分が撮ってる写真なんて、暗室にこだわらなくてもデジカメでも表現できるのかもしれない。
本当は、そっちをもっと研究するべきだと思う。
行くべき方向でない方向に行っているのかもしれない。
なのになぜやらなければと思ってしまうのか。。
自分にとって「写真をする」ということが、
表現したいものを見つけて、写真を撮って、そしてその表現にあったプリントをする。
その3点がセットになっているから。
そして、それが苦しくて、楽しいから。
「写真をする」のが好きだから。
自分らしさ
七五三で思い出す写真が一枚ある。
姉と私が着物を着て、きれいにしてもらうのを羨ましがった弟が
頭にリボンを付けて、にこにことかわいくご機嫌に笑っている写真。
兄弟が一斉に七五三を迎えない場合もあるし、男の子と女の子の差もあるし、
お姉ちゃんと妹との差もある。
子供はどうしてもきれいなほうを羨ましがっちゃうのかな~
私も姉のほうがきれいで、なんでも着映えがするものだから、七五三のときは姉のほうが着物も華やかだし、姉だけが化粧もしてもらって、かなり僻んだころを鮮明に覚えている。
「あんたはこれがかわいいの!」
と親は言うのだが、ぜんぜん納得できない。
そんな気持ちは大人になった今でも抱いてしまう。
本当は、「自分らしさ」
それが、一番大切なのに・・・・・
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